「社長」なんて考えていなかった。

ただひたすらに、
お客様の美肌を追求して歩んできた。

美肌ひとすじ50年。波乱と感動の半生記。

左希子のストーリー

Sakiko’s Story

  • プロローグ

    これまでの私をご存知の方でしたら想像もつかないことだと思いますが、そもそも起業なんて考えてもいなかったのです。私の若い頃は、女性が外で働くことは珍しく、主婦となって家庭で子育てに専念するのが一般的でした。

    実際、21歳で結婚した当初はそのような人生を歩み始めていたのですよ。働くことなんて思いもしなかった。せいぜい、洋裁の内職をする程度でした。

    そのような私が、美容の業界に進むこととなったきっかけは、ポーラ化粧品との出会いでした。それは昭和30年代の半ば、訪問販売の先駆けでもあるポーラが、私の住んでいた美唄という北海道の小さな街で商品説明会を行うこととなりました。

    「ポーラの商品を売ってみないか」と誘われても断っていた私ですが、ちょっと顔を出す気持ちで参加した私。でも、その日が人生の転機となりました。

    会場では洗顔クリームの説明が行われました。その頃の女性は、石けんで顔を洗うだけが普通の時代です。特に思春期の頃から肌で悩んできた私には、「そうだったのか」と商品説明が心に響きました。石けんで顔を洗っている奥様を見かけては「それじゃ肌がかわいそう。石けんに頼るのは良くないんですって」といった感じで説明。すると奥様方も「ふむふむ」ってたいそう関心を持たれて、洗顔クリームが飛ぶように売れていったのです。

    これが私の化粧業界との出会いです。「物を売って働くなんて無理」と思っていた主婦が、いつの間にかセールスウーマンに生まれ変わり、美容の道へと歩んでいくこととなったのです。

  • セールスと母親と

    昭和35 年にポーラ化粧品に入社して以降、営業職としてセールス技術を学び、さまざまな美容法を覚えました。後に各営業所長の指導をする立場を担うこととなるのですが、それもただひたすらに「営業」と「美容」を追求して、技術を高めてきた結果だと思います。

    「もっと営業や美容について学びたい」という想いに駆られて、4歳の長男と1歳になったばかりの次男を母親に預けて、1ヶ月東京の長期研修に出掛けました。ただ、その頃の私はセールスの仕事を長く続けるつもりはありませんでした。子供たちが小学校に上がるまでに少しでも蓄えて、家計のゆとりをつくろうと思っていただけでした。

    ところが、そう簡単にはいきません。今のようにクレジットが無い時代なので、お支払いは月賦がほとんど。売れても数千円の入金しかなく、お得意様は最低でも二百軒は持っていなければ利益が上がらない状況でした。

    まさに足で稼ぐしかありませんでした。化粧品をパンパンに詰め込んだ営業用バッグと幼い次男を抱えて、片道2時間の道のりをバスに揺られながら飛び込み営業に通う日々。吹雪の日には、子供をオンブしながら重いカバンを引きずっている私の姿を見て、停留所でもないのにバスの運転手さんが乗せてくれたこともあります。雨や雪が降れば「在宅の可能性が高まるチャンス」って喜んで営業に行きました。

    「一人でも多くの女性に、少しでも美しくなって喜んでもらいたい」というのが偽らない私の気持ちでした。信念をもってお話をすれば、お客様もきちんと応えてくれるようになり、多くの顧客を得られました。

  • 信念と思いやり、
    絶対に忘れてはいけません。

  • 創業「北海チャーミング研究所」

    セールス学校から始まって、子供の手を引きながらの訪問販売、新人美容部員の教育指導などを経験し、ポーラの一員として美唄から札幌に拠点を移していた私。昭和40 年代後半のある日、辞表を提出しました。人生の転機ともなり、11年間勤めた職場を離れ、私が選んだのは「独立」という道でした。

    立ち上げたのは「北海チャーミング研究所」という会社。従業員1名、歩合給の営業マンが数名という小所帯で、家庭用の美顔器などを販売していました。まだ、左希子化粧が誕生していなかった頃です。昭和47年、有限会社北海チャーミングを設立。私が39 歳の時でした。

    法人化して、売り上げも伸びて銀行の融資も受けられるなど、順調な滑り出しだと思えました。しかし、取引会社の1つが倒産。あおりを受けて、わが社も事務所の家賃を払えない状態に追い込まれました。

    事務所も自宅も手放して、貸家の2階に移ることになりました。固定給の社員への給与支払いがままならなくなり、さらには社員の一人が売り上げの一部を着服していたことが発覚しました。

  • 子供を背負って
    歩き回った駆け出し時代。
    お客様の美容をサポートするため、
    必死でした。

  • 屋根裏部屋暮らし

    身も心もボロボロになり、屋根裏部屋のような場所が事務所と暮らしの拠点。セールスマンは全員解雇し、自宅兼事務所には電話番の女性一人だけとなりました。

    すっかり自信を失っていた私は、廃業して勤め人として生きる選択肢を考え始めていました。あれこれ考えを巡らせているうちに、ふと2人の子供たちの姿を思い起こしました。

    屋根裏部屋暮らしが始まってから営業マンがいなくなったので、子供たちは勉強の合間を見ては自転車で町内を走り回りチラシの投げ込みをやったり、電話応対もしたり、仕事の手伝いをしてくれていました。

    安きに頼ろうとする自分自身の存在に気づかされました。子供たちが思い出させてくれたのは、物を売ることの原点。私は、一人ひとりに声をかけながら、少しずつお客様を増やしてきたのだと。

    「毎日4万円ずつ10 日間売れば、月に15万円ぐらい稼げるじゃないか」。そう考えると、再び自分の中で燃え上がるものを感じることができました。

    そこからは、ひたすらに動き回りました。美顔器や新たに加わった着物の販売が順調に進み始めました。相変わらず金銭的な苦労は続きましたが、支払いは確実に行い、給料も支払いました。

  • ススキノへ

    屋根裏部屋を脱出したのは1年半後。その頃には、従来の販売商品に加え、ススキノで始めたメーキャップサービスの活動が忙しさを極めておりました。

    昭和40 年代の後半といえば、札幌にマンモスキャバレーが進出してきた時代です。私がご縁をいただいたのは、ホステスさんを約400人抱えるマンモスキャバレー。ただの化粧品販売としての関わり方でしたら、お店に入り込むのは難しかったはずです。とても光栄なことでした。

    仕事は激務でした。作業時間は午後5時から午後9時まで。何百もあろうかというほどドレッサーが並ぶ控室で、ひたすら女性たちにメイクを施していきました。この経験は、私たちにとって非常に大きかったです。大勢の女性のお手入れをしたことで、より多くの肌を知る体験ができました。後の化粧品開発への礎となったことは間違いありません。

    こうして、主婦だった私は働く社会へ出て、さらには起業へ突き進んでいきました。ススキノの奮闘時期も走り抜け、左希子化粧品の誕生へと向かうこととなります。

  • ある薬剤師さんとの出会いが、
    「引き算の美容法」を生みだした。
    美肌力を引き出す考えが、
    そこにあります。

  • 夢実現へ

    1974 年。札幌・ススキノの一角に、私が起業して設立した会社「北海チャーミング」の運営するエステサロンがオープンしました。時代は、高度経済成長期の真っただ中でした。

    北海チャーミングのうたい文句は「美顔術専門、メーキャップ教えます」。そんなキャッチコピーの宣伝広告が電話帳に掲載されました。美顔サービスは婚礼前の女性を対象とするお店くらいで、私たちのように美顔術を一般の女性たちに向けて行うようなエステサロンはありませんでした。

    そもそも、「エステサロン」という概念を掲げたのは、日本でも先駆け的。当時、美容業界のごく一部で「エステティシャン」という言葉が使われていた程度でした。先行モデルがあるようなビジネスでもないので、経営的には全くのゼロスタート。技術と機材、化粧品と美に関する知識とノウハウを組み合わせた「エステサロン」のビジネスモデルは、私が築きあげてきたものだと確信しております。

    サービスは、マッサージと美顔器を使った肌のお手入れと、トラブルを解決するピーリングを施す内容でした。この肌トラブルの解決をサポートするサービスを通して、肌で悩んでいる方が沢山いらっしゃることを改めて実感しました。

    重いニキビの症状で悩む男子中学生や、病院をいくつも回りまわって北海チャーミングのエステサロンにたどり着いたお客様…。カウンセリングと施術を通して何千人もの肌をみました。後の化粧品開発に携わっていく観点からも、そのような肌トラブルで悩むお客様の声を聞き、実際に肌に触れる経験は貴重なものでした。

    1980 年代に入ると、バブル景気の到来とともにエステサロンのブームが訪れました。札幌では100 軒ほどのエステサロンが出店。新聞でも話題にされるほどにマーケットは急拡大していました。

    人気の高まりの一方で、「高い入会金を取られる」だとか、「高価な化粧品を買わされる」といった悪い評判も巷に流れだしていました。北海チャーミングはというとエステサービス料だけで、入会金もなければカウンセリングも無料。スタッフにはお客様に満足していただくための技術と知識を身に付けさせ、ただひたすらに「お客様の美容をサポートする」ことに邁進しておりました。

  • ツーステップ美容法の原点

    「正しい美容法で、女性に美しくなっていただきたい」。

    美容の業界に携わってから、私が片時も見失ったことがない想いです。ポーラ時代から北海チャーミング、その後に続く左希子化粧。どのタイミングでも私は一貫して「女性美」を追求してまいりました。そして、探究から生みだしたのが「2 ステップ美容法」。左希子化粧品の原点となった美容法です。

    この美容法にたどり着いたのは、私自身が「美しくありたい」という願いをずっと抱いてきたことと、ある人との出会いが背景にあります。

    私は生まれつき肌が色黒で、思春期には「色白になりたい」との思いから、オキシドールで顔をふくと色白になるとの話を信じて、ふいたこともありました。また、重い肌のトラブルにも長年悩まされ、乳液や化粧水、洗顔料など高価なものを何個も試しました。「美しくなりたい」いつも心の奥底にあった願望に追い立てられ、化粧品だけでは解決できず、病院も転々としました。

    美容皮膚科などがまだない時代。医者でも、私の肌トラブルの原因が分かりませんでした。言われるままに処方されたステロイド系の薬を使い続けました。

    そして、30 代後半のある日、なくなった薬を買いに行った薬局で、ある出会いがありました。処方を担当してくれたのは、若い薬剤師さん。その人の言葉が、私の運命を変えました。「どうしてこんな強い薬を使うのですか」と薬剤師さん。

    「生まれつき肌が弱く、どんな化粧品を使ってもダメ。もはや病院で出される薬だけが頼みの綱です」と私。

    「肌を、いじりすぎではありませんか」と薬剤師さん。

    一瞬、私はその言葉に息をのみました。ありとあらゆる化粧品を塗りたくり、オキシドールで顔をふき、鏡を見てうなだれる自分が頭をよぎりました。「美しくなりたい」という想いとは裏腹に、吹き出物や湿疹に悩み暮らしてきた自分の姿が、頭の中を駆けめぐりました。

    そして、霧がかっていた心のモヤモヤが晴れていくのが分かりました。「そうか、私はいじりすぎていたんだ」。栄養や油脂の補給のつもりで色々な化粧品を顔に塗ってきましたが、それらが逆に肌の負担となり、肌本来の活力を損なわせることに繋がっていたのです。

    それからというもの、肌に何かを塗ることを一切やめました。すると、顔全体に広がっていた水泡は徐々に乾き、かさぶたのように落ち始めました。その後に残ったのは、すっきりとした綺麗な肌。私が長年願い続けてきた、美しい肌でした。

    皮膚にはもともと分泌機能があって、水分や皮脂は自然に補給されるようになっています。しかし、肌が欲しがっている水分よりも油性の化粧品で肌を塗り重ねてしまうのが当時の一般的な化粧法。毛穴や皮脂腺がふさがれ、新陳代謝が低下してしまいます。長年、肌への負担が積み重なることで、私の肌は自ら美しくなる力(素肌力)を失っていたのでしょう。

    この出来事をきっかけに、皮膚の健康と肌の美容について改めて徹底的に研究し始めました。理屈が分かるとトラブルの解決方法を見つけだすのも簡単でした。それは、何かを塗る従来の化粧法とは逆で、いかに塗るものを減らせるか。化粧品は必要最小限の水溶性のものにとどめ、肌のケアは「洗顔」を大切にすることに注力しました。

    「洗って」最低限の化粧品を少量「つける」。私が編み出した2 ステップ美容法の誕生は、このような出会いがきっかけになったのです。

  • 誕生「左希子化粧」

    左希子化粧を設立した1985 年。まさに大量消費の時代で、日本の化粧品も売り上げが急拡大した時期です。女性たちが化粧水、乳液、栄養クリームなどを「塗り重ね」ている時に、私は「2 ステップ美容法」の普及に取り組んでいました。皮膚の新陳代謝を活発にさせ、肌本来の力を取り戻し・高める。そのためには、肌に塗る化粧品はなるべく必要な物だけに絞るという発想です。2 ステップ美容法は、「引き算の美容法」と言っても良いと思います。

    その理念を基に誕生したのが、私が開発した「クリーンウォッシュ(弱酸性洗顔料)」と「SSX(エスエスエクス)保湿美容液」の2 つの化粧品です。「洗ってつけるだけ」の2 ステップ美容法を体現するために開発したアイテムです。

    クリーンウォッシュは、私自身の体験と多くの女性の肌をお手入れしてきた経験と知識をもとにつくられた洗顔料です。クレンジングクリームでメイクを落とすのが当たり前の時代に、クリーンウォッシュで肌の汚れとファンデーションなどのメイクを落とし、しかも、肌にとって必要な潤い成分は残し、肌のpH も弱酸性に保つようにしました。そのため、洗顔後はつっぱったりカサカサせず潤いのある肌です。

    SSX は、第二ステップ「つける」をサポートする美容液です。洗顔後に2、3 滴つけるだけで肌のお手入れは終了する簡敏さを追求しました。化粧水や乳液、栄養クリームの働きを同時に合わせ持ちつつ、皮膚に無理な厚みや重みを与えないアイテムです。

    商品名の二つのS は「サキコ」と「スペシャル」の頭文字。X は、「原液」という意味の「エキス」が由来です。多様な天然エキスを配合していることと、私の美容理念を詰め込んだ商品、という想いからつけたネーミングです。

    化粧品メーカーからは通常、毎年のように新商品が発売され、時代時代のニーズに合わせた流行も生み出されます。しかし、クリーンウォッシュとSSX は、左希子化粧の素肌ケアの基本である、肌が持っている「自ら美しくなる力(素肌力)」を高めるために、肌に良くなじみ刺激が少ない高品質の成分でつくられているため、いまも使い続けております。

  • 故郷に戻る

    私の信念をカタチにした左希子化粧品の数々。それらの開発を実現できたのは、生産を請け負ってくださったベル産業の尽力があってのことです。「引き算の美容法」を基に、従来の化粧品とは真逆の考え方で開発する化粧品で、それが世の中に受け入れられるかは保証されておりませんでした。生産ラインを確保する側としてはリスクのある案件だったと思いますが、加藤社長(当時)をはじめ同社のスタッフは快く引き受けてくださりました。左希子化粧の誕生で私の夢が一つ形になったわけですが、それと時を同じくして、私の故郷である美唄市が、新しく造られた工業団地への企業誘致を進めておりました。市長並びに商工会議所の会頭をはじめ、同窓会の後輩たちの熱心な勧誘に心が動かされ、併せて、ベル産業のご協力もあり、自社工場を建てることを決心しました。より多くの女性に美肌を手に入れてほしいと願って、独自の美容法とオリジナル化粧品を開発した私にとって、その化粧品を自ら製造販売する化粧品メーカーとなる、もう一つの夢がかないました。

    1992 年12 月、工場の落成式が行われました。私が60 歳の時でした。落成式が始まる前は、周りの景色が全く見えないくらいの猛吹雪でしたが、式が始まる時には、晴天になっていました。まるで私の今までの人生をあらわすような天気でした。

    幼い子供の手を引いて、ポーラの化粧品を売って歩いた美唄。その後の起業に繋がるすべての原点である故郷の地に、私の想いを詰めこんだ建物が完成しました。

  • 新しい時代へ

    美唄工場の建設と前後して、私の家族にも大きな変化がありました。「兄さんが帰って来てくれたらいいなぁ」。左希子化粧の専務を務め、商品管理や営業の主力として、私を支えてきた次男が、ある日ぽつりと呟きました。

    長男は工業高校卒業後、航空機整備士として大阪で働いていました。中堅エンジニアとして会社から信頼は厚く、北海道に帰ってくるなんて私は想像もしていませんでした。

    ですから、夏休みを利用して帰郷した長男の「美唄に戻るよ」という言葉には驚きました。ただ、乗客の尊い生命が託される飛行機の安全の要である整備技術を高めた長男に対し、私は何の不安も感じていませんでした。「命と同じくらい大切な女性の肌」と「乗客の安全」を守るということは相通じるものがあると思っておりました。

    副社長として戻ってきた長男は、工場建設と生産体制の確立に邁進。無事に美唄工場の落成式を迎えることができました。

    1993 年、工場が操業を開始し、長男は副社長兼工場長として経営に力を注ぎ、美唄の地域活動にも取り組み始めました。その長男を専務の次男がサポートします。それから6 年後、私は引退を決意しました。

    38 歳で会社を興し、67 歳で引退するまでの約30 年間。無我夢中で駆け抜けてきました。その中でも、まずお客様に喜んでいただくことを大事とし、社員に対しては経営者として責任を果たすことを心掛けてきました。

    幾度ともなく倒産の危機はありました。それでも逃げずに責任を果たし、一歩一歩前に進んで壁を乗り越えてきました。

    左希子化粧は、長男が継ぎ、次男と力を合わせて新しい時代を進んでおります。社長を退いた後の私は、パソコンを使い始め、メールやSNSで友人たちと連絡を取りあう日々。
    いまや経営者ではありませんが、その頃から心掛けてきた「情熱の火を絶やさないこと」は続いております。